読書記録6

夜想 (文春文庫)

夜想 (文春文庫)

初出が『別冊文藝春秋』第261号から第269号の連載小説だった本書は、貫井徳郎が衝撃のデビュー作『慟哭』のテーマ<新興宗教>に再び挑んだ作品。
32才の雪藤(ゆきとう)は、交通事故で愛する妻と幼い娘を失い、絶望の中にいた。
ある日、他人の持ち物からその人の「過去」や「思い」が“見えて”しまうという特殊な
能力を持った女子大生、遥(はるか)と出会い、彼女が雪藤が落とした物から彼の
「哀しみ」にシンクロして涙を流してくれたことにいたく感激する。
やがて彼女から“救われた”と信じる雪藤は遥の能力をもっと多くの人に役立てたい
という力に巻き込まれてゆく。
有名になった遥は、次第に組織化され、遂に≪コフリット≫という会員制の団体の代表にならざるを得なくなり、会社を辞めた雪藤は、世間から見れば新興宗教の教祖
としかうつらない彼女を助けて奔走する。貫井徳郎の筆は、あくまで状況を粛々と
描いているが、肥大化する遥をとりまく環境に突き進んでゆくその姿は、ある意味狂気を宿したかようでもある。
ストーリーは、≪コフリット≫がふたりの手の届かない部分で次第次第に大きくなってゆき、組織作りの経験者を名乗るいまひとつ心を許せない男の登場、若いスタッフたちとの軋轢などがあって、クライマックスの遥の講演会へと進んでゆく。そこで起こる
事件が転機となり、結末に至るのだが、“救われた”と思っていた雪藤は、はじめて
自らの立ち位置を自覚するのである。
本書は、特殊能力を題目にしたエスパー小説でもなければ、<新興宗教>を主眼に置いた社会派小説でもない。あえて言えば“救われる”とはどういうことなのかを世に問うた、貫井徳郎が抑えた筆致で切々と綴る人間ドラマの秀作である。